2001-11-07 第153回国会 参議院 憲法調査会 第2号
ドイツの場合は七万人いるわけですけれども、結局、歴史的にベルリン封鎖を救ったのはアメリカであり、たまたま、ショルツ委員長、私も西ベルリン人として感謝している、ドイツ国民も一般に米軍を歓迎している、駐留経費については派兵する側が負担するのが普通であると。だから、ドイツの場合は負担していないということであります。
ドイツの場合は七万人いるわけですけれども、結局、歴史的にベルリン封鎖を救ったのはアメリカであり、たまたま、ショルツ委員長、私も西ベルリン人として感謝している、ドイツ国民も一般に米軍を歓迎している、駐留経費については派兵する側が負担するのが普通であると。だから、ドイツの場合は負担していないということであります。
ベルリン封鎖はありました。しかし、熱い紛争がなかったんです。しかしアジアは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、それからアフガニスタンあるいは中越、カンボジア、こういうふうに冷戦の中で熱い戦争があったんです。中東も、アラブ・イスラエルというので何遍も熱い戦争をやってきているわけです。
四八年にベルリン封鎖、五〇年に朝鮮動乱、五六年にスエズ動乱、五六年にソ連軍ハンガリー侵入、六〇年にコンゴ動乱勃発、六一年東西ベルリン境界封鎖、六二年中印紛争、六二年キューバ危機発生、六四年トンキン湾事件、これがベトナム戦争になりました。
第一次、第二次のベルリン封鎖問題もその一つでございますし、また南北朝鮮、三十八度線を境にした争いもその一つでありますし、また米ソ直接戦うかと世界を震憾させるようなカリブ海のキューバの問題の緊張もありました。そして四半世紀にわたって続いたベトナム問題があるわけでございます。アメリカはいままでは、ある時期には、口は出すがなかなか手は出さない国だということもいわれておったわけです。
四月に第一回のベルリン封鎖事件がございました。これまた国際的な大事件でありまして、言うなれば世界が二つの軍事ブロックに分かれていき、かつ冷戦に入るというきっかけがますます強まった。一九四九年の四月がベルリンの第一回封鎖なんですね。この事件、この辺のところから、日本に対する占領政策の変更が見られる。
一九四八年の例の四月のベルリン封鎖、このときに米軍の英国駐留が再開をされているわけですね。だから英国内に十七カ所米空軍基地がある。それからホーリー・ロッホなんかに海軍の基地がある。原潜基地等があります。これは米空軍の中心部隊は第三空軍、その司令部はロンドンから東に四十分、サウス・ルイスリップというのですね。
その第一期は、ベルリン封鎖、朝鮮戦争の影響を受けまして、世界的に集団防衛体制を固めなければならないという機運が高まった時期でございます。現在の地域的集団防衛体制は東西両陣営とも大体においてこの時期に結成されたものでございます。第二期は、一九五四年ごろから一九六二年のいわゆるキューバ事件のころまででございます。
続いて起こったベルリン封鎖を契機といたしまして、その年の七月にベルリンが二つに割れたわけであります。そのとき以後、ベルリンに東の政府と西の市政府ができるということができまして、それ以後ベルリンの問題はむずかしくなって参ったのであります。
一九四八年の四月に、ソ連の強引なるベルリン封鎖が始まりまして、ここで、米国並びに西欧諸国は一致結束して、航空輸送力を動員して、ついに一九四九年の五月には一日に一万二千トンに及ぶ物資の輸送に成功いたしまして、ついに西ベルリンの市民の生活を保障いたしましたことは、御承知の通りであります。こういう情勢にかんがみまして、一九四九年の四月にNATOができたのでございます。
その翌年の四九年には、ベルリン封鎖がある、同じ年の十月に、中国の中華人民共和国政府が独立宣言をする、続いて、それに対応して、一九四九年にNATOの条約を結んで、まず西ヨーロッパにおける対ソ武力政策を強化する——これはワルソー協定より前でございます。五年も前のことですね。
このベルリン封鎖に対しましては、アメリカはB二九によつてベルリン市民に食糧を補給したのであります。日本の海上が容易に封鎖されやすい戦略的、経済的な条件を備えており、これが封鎖されました場合におきまして、日本の民政の破壊はまことに恐るべきものがあります。いかに百万の陸兵を擁しておつても、食えない丘隊は何の役にも立たない。
なるほどヨーロツパにおきましては、ベルリン封鎖に対して敢然とこれに抵抗した。その後北大西洋同盟、これが曲りなりにも進捗しておるというような事情からいたしまして、ヨーロツパ方面におきましては、ベルリン封鎖当時のような戦争の切迫感が、なくなつておることは事実であると思います。
ところがベルリン封鎖が完全に失敗する。さらにイギリス・フランス及びベネルツクス、五箇国の條約、次いで北大西洋同盟條約が結成されますると、今度は共産軍はその主目標を東方に、極東に向けて来た。そうしてとどのつまりは、皆さんも御承知の、去年の六月の共産軍の韓国侵入でございます。もしあのときに国連軍あるいは英米の軍隊が出てあれを防がなかつたならば、共産軍は必ず日本に向つて進んで来たであろう。
そこでちようどヨーロツパにおいて共産陣営がベルリン封鎖をやりましたのは、ブラツセル同盟條約に対抗する報復措置であるといわれておるのでありまするが、アジアにおいて、この平和條約あるいは安全保障條約を締結した場合に、ソ連や中共は日本に対するそのような報復行為に出やしないかということも、国民の心配するところであります。この点に関する総理大臣のお見通しを承りたいと思います。
この最良な契機を逸するな、米ソ対立の深刻化、中共の情勢、大韓國政府の南鮮部における叛乱軍蜂起、欧洲ベルリン封鎖の問題の解除等の最も我々に有利な時期が今到來したぞ、これに呼應して徹頭徹尾抗争運動を開始せよ、又各地方情勢を檢討して善戰善謀せよ。それから中共軍は七月末までには全土を完全に占領し、又完全なる政権を樹立すると同時に、八月にはいよいよ日本國民に向つて有形無形の戰鬪を開始する。